平成19年度 法務省人権擁護局主催人権作文コンクール 岐阜地方法務局長賞

「障害と闘う父」

岐阜市立藍川北中学校 3年 山田竜太

人が予告なくアクシデントや災害に見舞われる確率は、一体どれくらいなのだろう。
もし仮に、自分や自分の家族が突然障害者になったとき、人はどう考え、どう行動するのだろう。
僕の父は二年前、脳内出血という病気で突然障害者になった。何の前ぶれもなくである。

「行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」

朝のこの会話が、はっきりと話せた父との最後の会話になるなんて、誰が予測できただろう。
何も知らずに帰宅した僕を待ち受けていたのは、悲痛な面持ちの母と、衝撃の告白だった。

「右半身麻痺になる」、
「歩行困難になる」、
「失語症で言葉がスムーズに出てこなくなる」、
「完全に元の身体に戻ることはありえない」など、
信じられない事実を次々と並べ立てられ、
当時十二歳の僕はそのとき、何も考えられないほどの驚きと恐怖と不安を一度に味わい、
ただ涙がぽろぽろとこぼれた。

入院生活にリハビリと、少しでも動けるようにと、父は懸命に努力し、臥薪嘗胆した。
自分のために家族のためにと必死の父を、影で応援しながら僕は、僕にできることを考え、
自分のことは自分でし、母を手伝い家事もした。

あれから二年余り、障害者として生きる父は、
少しでも自分より重度の障害者のためにと、車椅子マークの駐車場を遠慮したり、
家族に迷惑をかけないようにしたりと、不自由な手足で今も努力している。
父にむやみに手を貸さないほうが本人のためなので、つい手を出したくなるのをぐっと我慢する。
それでも、書斎でドタッと音がするたび、大丈夫だろうか、倒れてはいないかと、
母と僕は常に音には敏感に反応してしまう。

今、日本では「障害者自立支援法」という法律が制定され、
障害の種類にかかわらず、障害者の自立支援を目的とした共通の福祉サービスを提供するという制度ができた。

ところが、この法律は地域によるばらつきが見られ、
法律としての文言は整備されていても、住む場所ごとで肝心の助成が異なるのだそうだ。
また、福祉サービスの低下、利用料金の負担増加による生活の苦しみなど、
障害者にとって辛い法律になってしまっている部分があるという。
父はまだ家族の介助で生活が可能なので、この法についての実感は湧かないが、
障害者に対する人のあり方にはいつも考えさせられる。

先にも述べた車椅子マークの駐車エリアに堂々と駐車する健常者、
車椅子で方向転換ができないくらい狭い通路やロビー、
わずかな気配りが欠けているために、障害者がとても苦労していることをまず理解してほしいと思う。

お金を払うことも、手指の不自由な障害者には大仕事である。
財布からお金を出すのにひと苦労、
支払った後に無造作に渡されるおつりを集め取るのにひと苦労、
さらに、片付けるのに手間取り、やっと動作が完了した頃には後ろに長い列ができていて、
しかめっ面の健常者が、さも迷惑そうな顔でじっと睨みつけている。
こんな状況は当たり前にあり、一つひとつにめげていては何もできなくなってしまうと思う反面、
やっぱり申し訳ないという気持ちが優先し、結局家族頼みになってしまうと父はこぼす。

ほんのわずかな思いやり、
ちょっとだけ待つことが障害者をどれだけ救えるかということを、
昔の僕はまったく考えてもみなかった。
家族が障害者をもって初めて知った逆の立場の辛さは、
きっと父が病気にならなかったら、永遠に知らずに済んでいったに違いないと思う。

人は誰でも同じ立場になってみて、初めて解るのだと思う。
逆の言い方をすれば、同じ立場になってみなければ解らないのだと思う。
ただ、解ろうと努力することや思いやりをもつことは、ほんの少しの意識改革で可能になるはずだ。

バリアフリーという言葉が広く世間に浸透した今、
ただ公共施設に段差をなくしてスロープを作ることだけがバリアフリーだとは考えてほしくない。
温かい心が集まることで本来のバリアフリーが見えてくると思うし、
人が皆平等であるのならば、誰もが暮らしやすい社会でなければならないはずだ。

障害者だからといって甘えてはいけないし、
人に当然のようにいたわってもらってはいけないという父は、どこかで我慢を強いているのだと思う。

父はもう元の身体に戻ることはない。
僕がどんなに頑張っても戻してはあげられない。
でも、父のような障害をもった人に、何かしてあげられることは必ずあるはずだ。

僕は今も考え続けている。